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2015.08.13

Tiger

「あの、これ。ここに持ってくるように言われたんですが……」
 USBメモリをおずおずと差し出しながら、彼は言った。今年の4月に入社した新人だった。この暑い中でもきっちりとネクタイを締めている。その辺りが、とても新鮮な印象を与えた。

「あぁ、私ね。ありがと」
 受け取ってから、メモリをパソコンのポートへ差し込む。
「ちょっと待っててくれる?」
 頼みながら、USBメモリの中を確認して必要なファイルを探す。管理会計の数値を作成するために必要なデータだった。

 私はマウスを操作しながら、彼に声をかける。
「仕事は慣れた?」
 まるで授業中にする私語のように、彼は声を潜めて答えた。
「いえ、まだまだです。毎日失敗ばかりでご迷惑をおかけして、叱られています」
「偉そうにしてる上司だって、見えない所で失敗してるんだから、気にしなくていいわよ」
 その言葉に、私の上司――経理課長が私と彼を見て、にっこりと笑った。笑うところではないはずだ。
「この夏には、どこか行くの?」
 仕事に不安を、持って欲しくなかった。特に彼のような、――良くない上司を持ってしまった新人には。
「お休みを頂いて、マレーシアに行こうかな、と思っています」
「……そう、マレーシア」
 空虚な返事をしてしまう。マレーシアに関して何かを考えたことは、少なくともこの2年ほどの間には、一度もなかった。返す言葉に一瞬、窮してしまう。

 このやり取りを見ていた小川さんが、向かい側の席から、
「神代さん、自分から尋ねたんだからもうちょっと興味持ちましょうよ」
 と、笑いながらも鋭い一言。もっともな意見だ。私はマレーシアに関して持っている、うろ覚えの知識を総動員した。
「トラに気を付けることね」
 トラですか、と彼は言う。そこにトラがいることを信じられないような口振りだった。その反応に、私も不安になる。
 パソコンで、検索窓を開く。「マレーシア トラ」と入力して検索をかけた。
 『夫に襲いかかるトラを、木製のおたまで撃退した屈強な奥様』という題名の記事が引っかかった。マレーシアの森での話らしい。やはりマレーシアにはトラが生息しているようだ。――それにしても、この記事は一体何だろう。

「もしトラに食われたらどうしよう……」
 不安げな顔でひとりごちる彼。私は笑ってみせた。パソコンから抜き取ったUSBを差し出しながら。
「安心して」
 私は続けた。
「その時は小川さんが、粛々と死亡弔慰金を振り込んでくれるはずよ」
「まかせてくださいっ!」
 デスク越しに、小川さんがにこやかに笑った。
「えぇー……」

 困ったような顔に、しかし堪え切れない笑みを浮かべながら彼は帰っていった。「経理課って怖いところですね」という言葉を残して。
 笑い転げる経理課員を横目にしながら、私は窓の外の空を眺めた。
 夏の空には厚い雲が立ち込めている。今夜もどうやら、流星群は見られそうにない。
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