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2015.06.30

A mountain of

 一昨日からの夏風邪は、今朝にはすっかり治っていた。いつもより、少しだけ早い時間に出社した。
 オフィスに入り、デスクを目の前にした瞬間。心の中でため息を吐いてしまった。そこには書類の山がうず高く積み上がっていた。たった1日でこれだ。1ヶ月休み続ければ、月まで届く高さになるかもしれない。そういえば、と思い出す。1枚の紙を42回折ることが出来れば月まで届くと聞いたことがあった。本当だろうか。紙の厚さを0.5ミリだと仮定して、月までの距離が38万キロ。デスクの引き出しから電卓を取り出して計算をしようとして――はっと我に返った。これがまぎれもない現実逃避であることに気付いたからだ。
 
 かといって、当面はその山を片付ける気にもならなかった。とりあえず放っておくことにして、コンビニで買ってきたブラックコーヒーを取り出した。
 ゆっくりとコーヒーを飲んでいるうちに、経理課員が出社してきた。その一人一人に頭を下げて、昨日の休みを詫びた。全員が体調を心配してくれて、そのあとに「無理しないで休んでていいのに」と付け加えた。私は軽く笑っておいた。昨日、ポトフを作って赤ワインを飲んでいたとは言えなかった。

 始業時刻を過ぎてから、ようやく書類の山にとりかかった。半分が決裁、あと半分が請求書だ。それらを選別しながら、判子を押してゆく。と、1枚の付箋がデスクに貼られていることに気付いた。ウサギの絵が描いてある、メッセージ用の付箋。差出人の想像はついた。人事課の水瀬さんは、病的なまでのウサギ好きだったからだ。
 折りたたまれたその付箋を開いてみる。やはり水瀬さんだった。綺麗な文字でこう書いてあった。
「もう大丈夫? 快気祝いに、飲みに行こうー」
 小さな笑いが漏れた。どこかまだ行っていない、良いバーはあるだろうか。書類の山を片付けながら、私は記憶の中にバーを探し始めていた。
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2015.06.29

Absence and...

 鈍い頭痛がした。思わず頭を抑える。枕元を確認すると、時計の針は6時45分を指していた。午前か午後か、一瞬迷って、カーテンから漏れ来る朝の日差しに、午前だと気付いた。10時間近く眠っていた計算になる。体の節々が痛い。喉の痛みは引いていなかった。
 起き出してベッドに座りながら、仕事をどうしようかと考える。月末前。そう忙しいわけでもない。休んでしまおうと決めるまで、そう時間はかからなかった。とりあえず紅茶を淹れることにしておいて、いくつか並ぶブレンド缶の中からレディ・グレイを選んだ。

 湯気を立てるマグカップに口をつけながら、青空に昇ってゆく太陽を眺めた。太陽に照らされた阿蘇の山々が、マンダリンガーネットの宝石の色に輝いていた。始業時刻の10分前まで待って、職場へ電話をいれた。出たのは課長だった。休みたい旨を伝えたところ、

「大丈夫? 無理しないでね。なんだったら明日も休んじゃっていいから」

 そう言われて、曖昧に2度ほど頷いておいてから電話を切った。
 通話ボタンを押して、携帯を置いた瞬間。頭痛と喉の痛みが7割ほど、軽快した気がした。こういう突然の休みは、いつもの休日とはその質からして異なっている。その背徳的な充実感は、禁断の果実のようなもの。この休みがとても貴重なものに思えてきて、どうやって今日1日を過ごそうかと想像を巡らせた。往々にしてその想像は、あくまで想像の域を出ることがないのだけれど。

 ひとまず食事をつくることにした。昨日はサプリ以外何も摂っていなかった。何か作れるものがあるだろうかと冷蔵庫を開く。手のかからないものがいい。都合よくカブと牛すね肉があるのを見つけて、ポトフを作ることにした。
 キッチンに立つ。時間をかけるつもりはなかった。カブと牛すね肉、それにいくつかの野菜に手早く包丁をいれ、たこ糸で縛って鍋の中へ。途中で幾度かふらつきながらも、なんとか調理を済ませた。このままアクを取りながら、数時間煮込めば完成だ。とろ火にかけた鍋に蓋をして、キッチンを後にした。
 ベッドに戻る途中、本棚からソムリエ教本の1冊を手に取った。ベッドの上で開いて、そこに記されたブルゴーニュのドメーヌ名を目で追った。やがてまどろみ始める頃にはポトフが完成していた。どうせ有給だからと開き直って、ブルゴーニュ、パストゥグランの赤を開けてポトフを食べた。
 外は良い天気。窓から見える阿蘇山の草原は、赤ワインが似合う葡萄の蔓の色に染まっていた。なにもかもが充実した休みだった。これが病気で休んだとは、ちょっと人には言えない。
2015.06.28

Cold in summer

 起きてベッドから立とうとして、倒れた。
 それは珍しいことではなかった。低血圧で貧血気味の私にとって、立ちくらみはいつものこと。だが、全身に力が入らないとなると、これは立ちくらみとはすこし違う。
 頭にズキズキとした痛みが走った。ベッドにうつ伏せで倒れ込んだまま、動くことが出来なかった。四肢を動かすこともかなわない。窓から差し込んでくる強い日差しが、目に眩しくて痛い。その明るさに耐えられなかった。ほとんど這うようにして窓際へ行って、カーテンを引いた。日差しが遮られて、カーテン越しのくぐもった陽光が部屋を満たした。
 ベッドに戻る。全身に寒気が走って力が抜ける。窓際までの往復のせいかもしれない。自分の呼吸音だけがひどく深く、大きく聞こえた。頭と喉とが痛む。ともすれば意識が途切れそうになる。枕元に常備している鉄分のサプリを飲んだ。何の意味があるか分からないが、飲まないよりましだと思った。正常な判断力も失われたのかもしれなかった。
 目をつぶる。瞼の裏側に光が明滅する。その光が闇に溶け出してゆくとともに、やがて意識は眠りに落ちていった。

「まぁあれだ。夏風邪は馬鹿がひくというし」
 そう私に言ったのは誰だったろう。薄れてゆく意識の中で、それが頭に浮かんだ最後の思考だった。
 
2015.06.27

Windmill

 風車が廻り続けている。
 私の部屋の窓からは、山肌に建つ風車が見える。この町に来ることがあったら、南東の方向を眺めてみるといい。町のどこからでも眺めることができるそれは、風を受けながらいつでもクルクルと廻っているはずだ。

 風車が廻り続けている。
 キューブアイスを詰めたグラスにタンカレーを注ぐ。クリスタルのように透明な氷の合間を、47.3度のジンが満たしてゆく。グラスの上でライムを絞り、トニック・ウォーターで満たす。マドラーでひと混ぜしてやると、それで完成。グラスの中でソーダが弾ける小さな音が聞こえたなら、それが美味しいジン・トニックの証。


 風車は廻り続ける。音もなく回転し続ける3枚の羽は、そこに吹く風のため。
 風力を電力に変換し続ける羽は、そこに風が吹いていることを教えてくれる。風は一年中止むことはない。私の旧友が自殺したあの日にも、そこに風が吹いていたことを私は知っている。涙混じりで見上げた山肌に、風車は変わらずクルクルと廻っていたから。

 巡る四季に世界は彩られる。寒くて白い雪の季節には白い風。リモンチェッロのソーダ割りが似合う、太陽の降り注ぐ季節には黄色の風。色こそ変われど、そこに風は吹き続ける。今日の風は、いってみれば雨色のそれ。

 風車は廻り続ける。世界から風が失われる、地球最後のその日まで。山の斜面でクルクルと。
 廻り続ける風車を窓の外に見ながら、ライムをボードに乗せた。果物ナイフの刃を入れる。ザクっと響く、小気味よい音。窓から入り込んだ雨色の風が、ライム香をまといながら私の部屋を満たした。
 窓の外に風車を眺めながら一杯のジン・トニックを傾ける。いつまでもいつまでも、グラスにジン・トニックを作り続けながら私は休日の土曜日を過ごす。
2015.06.26

Siren

 そのサイレンは唐突だった。不安を煽るかん高い警戒音。自動音声で流れる火災発生と、避難の呼びかけ。出入り口の上に設置された非常灯は鋭い明滅を繰り返し、そこに避難経路が存在することを伝えていた。
 オフィスにいた全員が、デスクから顔を上げて周りの顔を見る。それはまるで、この中に事情を説明出来る人を探しているようにも見えた。火災報知器の表示盤を確認した職員が「2階です!」と叫んだ。その声に弾かれて、大半の職員がオフィスを飛び出した。彼らは避難したわけではない。現場を確認しに向かったのだ。――多分。

 閑散としたオフィス。そこに留まったのは私を含め、わずか数人だった。金を守る経理課と、個人情報を守る人事課。人事課では水瀬さんが眠そうな顔で転職サイトを眺めていた。こんな時でも彼女は、ぶれない。
 いよいよ私が災害時用にあたためてきたマニュアルが役に立つ時が来たかもしれない、と考える。こうした火災の場合。私の中のマニュアルによると、金庫から会社の通帳と銀行印を取って海外へ逃げることになっていた。出国する前に、私の隠し口座に有り金を全て送金しておくことも忘れてはならない。その金でプーケット沖あたりに家を買って、優雅な生活をすることになっていた。――しまった、と思う。マニュアルの破綻に気付いた。隠し口座を作るのを、すっかり忘れていた。今から口座を作っても間に合うだろうか。
 サイレンの音を聞き流しながら、私はそんな馬鹿なことを考えていた。きっと私みたいな人間が火事の時には逃げ遅れてしまうに違いない。

 やがて、現場へ向かった職員が戻ってきた。誤報だったらしい。どうして、と思う。誤報には誤報の起こる理由がある。
 支社長が理由を全員の前で報告してくれた。快刀乱麻が長所の彼にしては妙に歯切れが悪い報告だった。その要旨は、彼の最後の一言に集約されていた。
「なんか、職員が追いかけっこ、みたいなことしてて、転んだ拍子に押しちゃったみたいです」
 思わず笑ってしまった。私の会社にはそれなりのイメージがある。このイメージも崩壊するだろう。何しろ追いかけっこだ。何年かぶりに聞いた言葉。

 追いかけっこ禁止令が貼り出されることになるのだろうか。これからのことが少しだけ楽しみな自分がいた。自動通報を受けたのだろう。近づいてくる消防車のサイレンを、私は台風を待つ子どものように心弾ませながら待っていた。
2015.06.25

Tax affairs

 扉の前で、私は腕時計で時刻を確認した。約束の時刻を5分過ぎていた。
「やぁ、来てくださってどうもありがとうございます」
 扉を開くと、マスターの青山氏が迎えてくれた。私が片手間に経理をしているバーのマスター。相談があるから一緒に聞いてくれないかというメールを彼から貰ったのは、昨日の夜のことだった。

 私は青山氏に遅刻を詫びた。
「ごめんなさい、ちょっと雨がひどくて」
「いえいえ。私こそ無理言ってすみません。こちらへどうぞ。先方もお見えになっていますよ」

 カウンター席の奥、扉を抜けて事務所に通される。応接椅子の前では、スーツ姿の男が礼儀正しく立っていた。歳は私と同じくらいか、少し上のように見えた。

「わたくし、こういうものです」
 彼が名刺を差し出した。そこには誰もが知る保険会社の名前が記してある。相手の名前だけ確認しながら、私は自分の名刺は持っていないことにした。
「すみません、名刺忘れちゃって。神代です」
 彼の名刺をテーブルに置いて、私はその営業担当者のはす向かいに座った。私の隣に青山氏が腰を下ろす。
「えぇと、保険の話でしたよね。節税になるということでしたが……経理をやってくれてる彼女にも話を聞いて貰おうと思いまして」
 青山氏の口から「経理」という言葉が出た瞬間に、営業担当者の顔が少し曇った気がした。が、それは一瞬だった。すぐに営業用の静かな笑みに戻る。見事なものだった。

「そうでしたかそうでしたか。それでは改めてご説明させて頂きますね」
 彼はその笑みを保ったまま、クリアファイルから資料を取り出して説明を始めた。その内容はこうだった。

 このバーが保険会社と契約を結んで、マスターの青山氏に保険金をかけるというもの。当然、バーが保険料を支払うことになる。この保険はいつでも解約することが出来る。そのときには今まで払ってきた保険料に応じてお金を返す。おおまかに言うと、そんな内容だった。青山氏がごく自然な疑問を呈した。

「それって普通の保険だと思うんだけど、それがどうして節税になるんですか?」
 営業担当者は答えた。バーが支払う保険料は経費として認められる。つまり利益を小さくする効果があるんです、と。
 彼は説明用パンフレットのページをめくった。たとえばこのバーの利益が100万円だとする。法人税は利益に課される。税率が30%だとして、そのままだと30万円を納税しなくてはならない。ところがこの保険料をたとえば20万円支払っていると、利益は100万円から20万円引いて80万円になる。ここに法人税率30%をかけて、納税額は24万円。
「したがって6万円のお金が節税されることになります」
「確かに税金は安くなってますけど、なんていうか、それって得してるわけじゃないですよね?」
 青山氏が言う。その通りだ。20万の費用が増えて6万の節税なら、差し引き14万の損になる。思わず青山氏を褒めたくなる。私がおもっている以上に、彼は経理のことを理解してくれていた。
「おっしゃる通りです。そこでこの解約のお話になるんです。普通の保険だと保険料は掛け捨てで戻ってこないか、戻ってきてもごくごく僅かですよね」
「えぇ、そう、ですよね……?」
 青山氏は言いながら私の顔を見た。私は黙って頷く。すると彼はひとつの表を出してきた。指で差しながら説明する。
「こちらの表が、解約したときに戻ってくるお金のパーテンセージを示しているんです。5年後ですと、こちらですね、なんと98.5%が戻ってくることになります」
「5年ということは、毎年20万支払うとして合計100万を支払っているわけですね」
「その通りです。ですがそれは5年後には――?」
 営業担当者が、パンフレットの数字を指した。青山氏がそれを読む。
「98万以上。戻ってくるわけですね。一方、毎年浮く税金は6万円。5年で30万浮くことになって……」
 青山氏は頭の中で計算を始めた。

「いかがでしょうか?」
 営業担当者は、私の顔をのぞきこみながら笑みを浮かべた。営業用のそれとはすこし異なる、もう少し力を入れた笑みだった。

「もう一度さっきのページを見せてもらってもいいですか?ちょっとよく分かんなくって」
 私は尋ねた。彼はすぐにパンフレットを見せてくれた。解約時の返戻率に興味はなかった。そのページの片隅に目を走らせる。私の興味があるのは、その端っこ。多くのパンフレットにおいてそうであるように、国税庁の通知はとても小さな字で記してあった。

「神代さん、私はこれ、悪くない話だと思いますけど」
 隣から青山氏が言った。
「マスター。とりあえずは時間を頂いて考えてみるのはいかがでしょうか」
 私は穏便な策を取った。これが職場とそうでない場所との違いだ。職場であればもう少し冷酷に行っても構わなかったが、青山氏の前ではそうはいかない。客商売の難しさだ。

「本当のとこ、どう思います?」
 営業担当者が去ったあとで青山氏が言った。
「まだ早いと思うわ」
 私は簡潔に答えた。
「悪い話じゃなさそうですが」
「解約の時に戻ってくるお金があるでしょう?」
「えぇ、かけた保険料がほとんど戻ってくるという話ですね」
「これ、受け取った時点で大体半分くらいが収入になるから法人税かかるのよ」
 したがって、結局は課税される時期が先送りされるだけの結果になる。その他にもいくつか、重要な点がさっきの話には欠けていた。
「払った保険料も全額を費用にできるわけではないし、解約時の返戻率が高いのもわずかの期間。もし契約していたら、こちらのキャッシュフローを悪化させていたでしょうね。解約しようにも出来ないなんて、怖いと思わない?」
「怖いものですね……正直言ってこれまで経理なんて軽視していましたが、こういうことがあるなら、経理を知らないとやっていけないかもしれません……」
 一番大事なのは、と私は忠告する。
「税金で楽しようと思わないこと、かしらね」
「あ、ばれました?」
「みえみえ」
 私は営業マンが置いていった名刺を灰皿に乗せて、青山氏に渡した。受け取った彼は、ライターに火をつけて名刺を燃やした。炎をあげる名刺を眺める彼の表情。そこにはもう未練は残っていないように見えた。
2015.06.24

Habit

 買い物は仕事帰りに済ませることにしている。帰りに寄るショッピングモールも決まっている。そこで買うものもまた、たいていは決まっている。もし日々の買い物に違いがあるとすれば、ワインを購入するかブランデーを購入するかという程度のこと。毎日の買い物は私の飲酒と同様、一つの習慣になっていた。したがって仕事帰りのその習慣を忘れたことはなかった。――そう、昨日までは。

 マンションに帰り着くと、私はまず換気扇を回す。ついでに窓も開け放つ。昼の間に暖められた生ぬるい部屋の空気が、外の冷涼な空気に押し流されていく。体感できるほどに部屋の温度が下がる。続いてバッグをハンガーにかけて、携帯だけ取り出して充電器へ。そして窓とカーテンを閉めてブラウスのボタンに手をかけたところ。ようやく、ようやく気付いた。失念していた。買い物。すっかりと。

 買い物は、別にいい。これから出掛ければ済む話だ。さっきから降り始めた雨も大した問題ではなかった。重要なのは、毎日の習慣を失念してしまった理由。それが分からなかった。日々の習慣をそう簡単に忘れてしまうとは思えない。

 何か考え事をしていたせいかもしれない。そう思って自分の行動を振り返ってみた。寄るべきショッピングモールの隣を車で通り過ぎたとき、私は何か考え事をしていただろうか。いや、あるいは「何かをしていた」だろうか――。
 考えるまでもなかった。すぐさま思い当たる。あのせいだ。ラジオから流れていた音楽。『ハッピーくまモン』。ショッピングモールを通り過ぎながら、私はその歌を口ずさんでいた。だからこれは、くまモンのせいだ。ゆるキャラのせいにすると、少し安心できた。
 キッチンを確認する。ブランデーが切れていた。昨夜のオタールで最後だったらしい。この部屋にはブランデーが、一滴も残っていない。これもくまモンのせいだ。さっきから雨が降り出したけれど、雨用のパンプスが玄関に見当たらないのもまた、もちろん彼のせいだ。そういうことにしておこう。

 自分の甘さを全てくまモンに責任転嫁し終えたところで、私は買い物に行くことにした。
 明日からはラジオの選局も考えた方がいいだろうか。AMのNHK第2あたりをずっとかけておくと、今日みたいなことはないかもしれない。――その渋さは、まだ私には早いか。どうでもいいことを考えながら、私は玄関のドアを開けてワイン・レッドの傘を手に取った。
2015.06.23

A note

 ここに1冊の手記がある。これを記したのは私の知る、一人の女性。彼女が綴った文章がおさめられている。

 今日1杯目のジン・トニックを口に運ぶ。ライムを省略して作ったそれは、いつものそれよりわずかに甘い。トニック・ウォーターが多かったのかもしれない。

 手記を開く。わずかに変色した紙に、艶のあるインクで文字が刻んである。その字が乱雑なのは彼女の悪筆のせい。または彼女が酩酊して文字を記したせい。乱れた文字が勝手気ままに奏でる文章は、しかし破綻なく繋がるジャズのように滑らかで、そして美しい。

 ジン・トニックを一息に飲み干し、一本のボトルを取り出した。オタール。ブランデー。
 グラスに注ぐ。彼女の愛したブランデーのひとつだった。
 このブランデーのボトルを彼女は、涙の一粒のような、と表現した。それがこのボトルの形を指していたのか、それともそれ以外の意味があって記した比喩なのか、それは分からない。

 今夜は雲が月を隠している。
 硬くて黒い夜の只中で、一片のコニャックが葡萄の薫香を咲かせる。灼いた葡萄の香りと、蒼い月。彼女はそれらを愛した。

 手記の頁を繰る。流麗な文章で綴られた彼女一流の文章は、しかし唐突に途切れている。手記の最後に刻まれた日付は、2004年の8月。私は17歳だった。もう10年以上前になってしまったその日。彼女は私の前から姿を消した。いまどこにいるのか。生きているのかどうかさえ、私は知らない。
 
 今夜の大津町には弱い雨が降っている。雨音は静かにこの世界を彩りながら注ぎ続ける。グラスのオタールに浸み入る、一粒の涙のような雨。こんな雨が降り続けたならば、彼女はいまでもここに居てくれたのかもしれない。彼女の記した手記からは雨の匂いがする。

 手記を閉じて、私は最後のオタールをグラスに注いだ。
 最後にもう一度だけ、この手記の主、私の敬愛する叔母に会えることを願いながら。

2015.06.22

Cash

 現金が嫌いだという人は少ないだろう。しかし仕事で現金を扱う類の人には、この感覚も分かってもらえると思う。
 とにかく現金というのは扱いが面倒だ。動いても証拠が何も残らないし、動かすたびに領収書を一枚切らなくてはならない。盗難の恐れもあるし、小銭は重い。数えるのだって一苦労。もしこれが預金というなら、話は簡単だ。通帳一枚で管理できるうえ、現金特有の面倒な手間が全て省ける。経理が現金を嫌う理由はこの辺にある。とはいえもちろん、現金を扱わないというわけにはいかないのが、経理の悩みどころなのだけれど。

 定時15分後にオフィスへ戻った。少し長引いた打ち合わせのせいだ。さっさと帰ろうとデスクに向かう。すると、経理課の金庫の前で後輩の子がおろおろと現金を数えているのが目に入った。現金の管理は彼女の役目だった。普通ならこの時間には締めも終わり、金庫は既に施錠されているはずだ。ところがいま、そうなっていないのは、
「お金、合わないの?」
 現金の不一致以外、理由は無かった。尋ねた私に、彼女は疲れ果てた笑顔で頷いた。
「ん……えへへ、はい」
「手伝うわ」
 電卓と万年筆をデスクに置いて、私は金庫に向かった。

「合わないのはいくら?」
「5千円です」
「今日、現金の支出か収入はあった?」
「いえ、ありません、でした……」
 記憶をたどりながら、彼女は言う。とすれば、といくつかの原因を推定する。百円玉の棒金の数え間違いか、万札と五千円札の取り違えか、あるいは――。そのうち、最もありそうな原因から当たることにした。
 それにしても、と疑問を持つ。この時間まで、他の経理課員は誰も手助けをしなかったのだろうか。現金が合わない不安は、よく知っているだろうに。そう思って課内を見てみると、既に課長を含めて全員が帰社していた。単に気付かなかったのか、それとも彼女の責任だからと見捨てておいたのか。それは分からない。前者だと信じたかった。

「一応小口現金も実査しておいてもらえる?」
 彼女に言いながら、私は五千円紙幣の束をデスクに重ねた。その山から1束を取る。束ねているゴムを取り、5000という数字が印刷されている部分を左下にして縦に持つ。続いてその紙幣の右下側面、紙幣の厚みを右手で包み込む。そのまま右手首で捩じりながら均等に力を加え、紙幣の束を扇状に広げてゆく。100枚の紙幣が開く、独特の紙擦れ音が響いた。そこから4枚ずつ繰って数えていく。横読み、と呼ばれる札勘定の方法だ。最近では流行らない、紙幣の数え方。
 同じやり方で紙幣の実査を繰り返していく。4つ目の束で、ふと手が止まった。もう一度数える。やはり、おかしい。念のため、縦読みでも数える。私のする縦読みはそれなりに早くて精確なのだけれど、ひどく卑俗に見えるので人前ではやらない。そして確信が持てたところで、その束を計数器にかけた。計数器が数えたその束の枚数は、101枚。

 金庫を見やる。彼女は金庫に頭を突っ込みながら実査していた。後ろから、その肩を叩く。振り向いた彼女に、
「これ、1枚多かったみたい」
 私の差し出した1枚の五千円札紙幣。それがまるで貴重なダイヤモンドででもあるかのように、彼女は恭しく受け取った。気持ちが理解できて苦笑してしまう。私自身も同じことを繰り返していた入社当時のことを思い出す。現金が合わなくて、2時間かけて探したこともあった。あの時も原因はこんな単純なものだった。

「ありがとうございました。ちゃんと数えておけばよかったですね、すみません……」
「機械が間違えるなんて、普通考えつかないわよね。他に何か手伝えることある?」
「いえっ、あと金庫だけ閉めれば終わりなので。ありがとうございます」
「そう。それじゃあ気を付けて帰ってね。おつかれさま」
 パソコンの電源を落として、バッグを取り上げる。そのまま退社しようとしたところ、
「あの、神代さん」
 呼び止められた。
「どうしたの?」
「あ、ごめんなさい。えぇと……本当にありがとうございました」
 どういたしまして、と私は手を振った。
 職場を出ながら、いっそ現金なんて無くなればいいと思った。そうしたら仕事がとても楽に進む。それどころか、私の仕事も無くなるだろう。それはとても素敵な想像だった。私はあまり、仕事が好きではないらしい。

2015.06.21

Mentor

「ねね、神代」
 帰りのタクシーの中。霧島先生は運転手に聞かれないよう、小さく囁いた。
「さっきの前菜の帆立のポワレね、半生じゃなかった?」
「そんなことなかったと思いますけど」
 それどころか、私の1時間ほど前の記憶が確かならば、先生はそのポワレをおいしいおいしいと言いながら白ワインを空けていたはずだ。でもそれは言わないことにしておいた。

 霧島先生は高校時代の教諭だ。担当は物理学。高校を卒業してからも、時々連絡を取り合っていた。私が熊本に戻ってからは、1年に数回、どちらから誘うともなく一緒に食事をするのが恒例だった。今日の店は彼女のおすすめだった。私の町の隣村、その高原に建つ煉瓦造りのフランス料理店。料理もワインも申し分なかった。

「でも霧島先生、飲んでよかったんですか?」
「ん? どうして?」
「模試の採点があるっておっしゃってませんでした?」
 あぁ、あれね、と先生は人差し指を立てながら、
「適当に採点しておきゃいいのよ。物理なんてセンスなんだから出来る奴はできるし、出来ない奴はできないって」
 さらっと教師の存在意義を否定した。私が高校生だったころから、先生のそういう豪放磊落なところは変わっていなかった。口ではこう言いながらも、しっかりと仕事をしていることを私は知っている。一方、当時から結婚しないことを公言していた彼女は、こちらはその言葉通り、今でも独身を貫いているらしい。

「あ、ほら。虹だよ虹」
 先生は窓の外を指差した。窓を開けて眺める。くっきりと7色に分かれた虹が、天頂ちかく、雨上がりの空の只中に雄大な弧を描いていた。最近見たことのない、見事な虹だった。
「どうして虹が見えるのか、知ってる?」
 先生が尋ねた。
「水滴がプリズムの役割を果たして光を分解する……っていうことだったと思いますけど」
 私の答えに、先生は大げさに溜息を吐きながら首を横に振った。
「ダメだよ、神代。そんなロマンのかけらもない理系的な考えばっかりしちゃ」
 京都大学で物理学を学んできた先生には言われたくなかった。
「それじゃあ教えてください」
「虹が見えるのはねぇ」
 5秒。先生はじっくりと溜めて、こう続けた。
「『辛くて長い雨に耐えたから』、なんだよ」
「……先生、酔ってますか?」
「酔ってないよ。この言葉、誰が言ったか知ってる?」
「知りません」
「アタシ」
 ドヤ顔という言葉はこういう表情のためにある言葉なのだろう。
「あぁ、完全に出来上がってますね。もうすぐ家に着きますからね」

 タクシーが霧島先生のマンション近くに来た頃。先生はシートに深く身を沈めながら独り言のように言った。
「もう――5年になるかぁ」
「……そうですね」
「あっという間だったね。神代も少しは元気取り戻せてるみたいで安心したよ」
「すみません」
「謝ることじゃないって。私も墓参りしたときに、なんだか思い出して感傷に浸ってたしね」
 私も、そして今は亡き私の幼馴染も、霧島先生の生徒だった。

 先生はもしかしたら、今日一日、私を励まそうとしてくれていたのかもしれない。先生がタクシーを降りたあとで、ふとそんなことを考えた。走り出したタクシーの中から振り返る。先生はおぼつかない足取りで、体をドアにぶつけながら部屋に入っていくところだった。先生がアルコールにあまり強くなかったことを、私は今更思い出した。
 先生がしていたように、タクシーのシートに深く身を沈めた。窓の外で流れる景色を眺める。虹はその姿を消し、空からは再び強い雨が降り始めていた。辛くて長い雨。空に架かる虹をもう一度見るために、これからどれだけの時間を耐えて過ごしていくことになるのだろう。大津町へ向かうタクシーの中で、私はそんなことを考えていた。
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