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2015.05.31

In the Forest

 休日を森で過ごすというと、変な顔をされる。

「野イチゴでも採りに行ってるんですか」と言われるのはまだましな方。ひどい人になると「心霊スポットでもめぐってるの?」だとか「妖精でも探しに行ってるんじゃねぇの?」などと言ってくる。普段どういう目で私のことを見ているのだろう。

 私の町の外れ。阿蘇の外輪山へ登る途中に森林公園がある。森林浴や散策のための公園。そこで私がそれらをしたことは、しかし一度も無かった。

 駐車場に車を停める。他の車はいない。
 買ってきたウォッカレモンソーダやトニックウォーター、ジン。そこから数本だけを車に置いて、残りを手に森の中へ。エンジンは切らない。
 散策道から外れて、森の中を歩く。緑を透かした太陽が、複雑な形の木漏れ日を落としている。吹く風が揺らす木々のざわめき。遠くから聞こえる野鳥の囀り。それらを引き立たせる静謐が、森の中には満ちていた。

 ほんの数分ほど歩くと、一本の小川にぶつかる。
 手を入れる。はっとするほど冷たい、透明な水が涼やかな音を立てて流れている。手にしたボンベイ・サファイアを流れの中に沈めた。次いでウィルキンソン・トニックを2本、ライムを1個、同じように小川に浸す。ライムは以前、流されてしまったことがあるので、小石で軽くせき止めてやる。流水の中、ボンベイ・サファイアのボトルが太陽の光を屈折させながら、蒼色の冷ややかな陽だまりを水底に浮かべた。

 車へ戻る。
 シートを倒してラジオをつけた。日曜日午後1時のFMラジオ。DJの物憂げな声が語るカクテルの歴史を聴きながら、ウォッカレモンソーダの缶を口に運んだ。わずかに開けている車の窓からは、森の下草の青い香りがかすかに入ってくる。
 ウォッカレモンソーダは3分で空になった。キューブアイスを省略して、ジントニックを作った。

 グラスを片手に、車のシートへ身を預ける。目に入るのは、煮詰めたような空の濃い青色。ぽっかりと浮かぶ牛乳色の積雲は、いつもより近く大きく見える。遠く外輪山の頂で、草原の鮮やかな緑が風に揺れていた。夏の足音が聞こえる空だった。数杯目のジン・トニックを傾けながら、窓越しの森を見やる。夏の緑の向こうに、小川のボンベイ・サファイアらしい冷涼な風が吹いた気がした。


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2015.05.30

A sigh

 雨が降っている。
 差した傘の下、風に乗った雨が足元を濡らす感覚が伝わる。夏を前にした暖かい雨に、濡れた煉瓦の壁が黒く沈んでいる。閉ざされたカーテン。もう数日は開いていないであろう入口の扉。扉と壁の間に、重い鍵がかかっているのが見えた。

 まただ、と思う。
 一週間ほど前に訪れたときも閉まっていた。上質なストレート・コーヒーを出してくれる喫茶店。町から少し外れたところにあるこの店に、一カ月前までは頻繁に通っていた。閉まりがちになったのはそれからのこと。何の前触れもなかった、と思う。
 店主は50代の、葉巻がよく似合う男だった。リリー・フランキーに少し似ていたかもしれない。彼が心地よく低い声で語る話が、しかし声とは対照的にくすりと笑ってしまう話ばかりで、その軽妙な話術の――そしてもちろん、彼のいれるコーヒーの――私は虜だった。

 空になった店の屋根を、雨が叩く。タタタン、という小気味良い音。
 雨は降り続ける。すべてを平等に濡らしながら。
 色を持たない雨は、しかし世界の色を鮮やかに増幅させながら時の間を巡る。そんな生き方が出来れば素敵だと思う。彼はどこかで、そんな風に生きていく気がした。

 轟音。
 どこか遠くで雷が落ちたらしい。私は店に背を向けた。と、

「神代さん?」
 え、と声を出してしまった。振り返ると、店から出てきた彼がいた。とっさに言葉が出てこなかった。
「どうしたの?雨の中でたそがれちゃって」
「…随分、お店閉まってたみたいですね」
「あぁ、ちょっとブラジルに旅行にいってきたんだよ。さっき戻ってきてさ。あ、そうだ。ちょっと待ってて」
 返事も待たず、彼は店に走っていって、すぐに戻ってきた。それで私は、鍵に見えたものが単なるプレートの看板であったことを知った。
「これ美味しいんだよ。食べてみて」

 渡されたのはココナッツ・ビスケット。私はどうしてか気恥ずかしいような、わけもない溜息を吐きたくなって、代わりに小さくお礼を言った。また店は開けるのだそう。空にのぞいた小さな青空から射す光に、いつの間にか雨が上がっていたことに気付いた。


2015.05.29

In return for

 扉を開けた瞬間、店の選択を誤ったことが分かった。

 いくら店構えが立派であっても、学生が多く集まるバーでは上等なカクテルを出さない。かといって踵を返すこともできず、私は水瀬さんと共にカウンターの端に腰を下ろした。
 メニューは見ずに、マッカランのロックをオーダーする。水瀬さんはブッカーズのストレート。オーダーも小さな声だとかき消されてしまうほど、学生の喋り声がうるさかった。耳をふさぐ代わりに、私は煙草に火をつけた。

「近藤が内定決まったらしいっすよ」
「マジか。アイツが就活とかウケるな。どこに決まった?」

 問われて、その学生は誰もが知っている企業名を答えた。途端にその集団に、歓声があがる。品が無い。舌打ちしたくなるのを我慢した。
 近くにある国立大学の学生に違いなかった。彼らは大声で就職活動の話を続けた。その中に、私たちの会社の名前も出てきた。天下の――と、彼らは自称した――彼らの大学からすると、「余裕で入れる」会社らしい。

 つい、声を押し殺した笑いが漏れてしまった。水瀬さんも小さく笑いながら、ブッカーズの入ったグラスを傾けた。彼らも就職活動で、私や水瀬さんの大学の後輩と席を奪い合うことになる。そこで、ここにいる彼らの大学に軍配が上がるというのは、残念ながら有り得ない話だった。夢を見ていられる時間は、そう長くないということだ。それは一杯のウイスキーがもたらす酩酊に、とてもよく似ていた。

「もしそこに違いがあるとしたら」

 独り言のように水瀬さんは呟いて、
「後に残る代償が、二日酔いで済むかどうか、ってとこかしらね」
 グラスのブッカーズを飲み干した。2軒目へ行こうという合図だった。私は煙草を消して、賛同を表した。
2015.05.28

Never recur

 人の出会いは一度きりだ。

 3月の半ばにOG訪問を受けた。就職活動をしていた、大学の後輩からのものだった。私の働く企業を志望していた彼女と会って、話をしたのはもう二ヶ月以上前のことになる。彼女からメールが来た。
 私の企業の選考に、落ちたとのことだった。簡潔な報告と定番の結び文句で綴られたメールだった。

 一度だけそのメールを読んで、私は煙草を取り出した。
 ベランダに出て、火をつける。

 彼女は言っていた。自分の思いを形に出来る場所で働きたい、と。大学では国際的な活動にも従事したのだそう。それはしかし、酷な言い方をすれば、単なる遊びだったということだ。少なくとも、人事課の人間はそう判断した。それが正しい評価なのかどうか、私には分からない。ただ、もう二度と彼女と話す機会もないのだと考えると、なんだか不思議な気がする。寂しいというには漠然とし過ぎている、その感情に名前をつけるとすれば、切なさとやるせなさだった。

 ショート・ホープは太くて短い煙草だ。ニコチン値もわりと高い。よく言われる。「女が吸う煙草じゃない」と。そういう濃密な味と香りとが気に入っている。そういうものにすがりたく時が、私にはあった。

 よく晴れた月に向かって煙を吐いた。紫煙をまとう月に、私は彼女の人生に幸多からんことを祈った。

2015.05.27

Begining of Summer

 道を歩きながら街路樹を見上げた。木々の向こうには真夏の太陽。

 暑い。こういう朝には、スーツを着て仕事へ向かうのを後悔したくなる。太陽光を直視して眩暈がしてしまう。あらためて自分が夜型の人間だと気づかされる。掌の腹で目元を抑えながら、歩き続けた。
 アスファルトは太陽光を反射しながら熱気を湧き上がらせていた。うんざりして、もう一度空を見上げる。目も眩むような、どこまでも広がる青空。夏は、苦手だ。

 目の端に一軒の和菓子屋が移った。
 そういえばもうすぐ私の祖父の30回忌か31回忌くらいになる。いや、もしかしたら祖父ではなくて曾祖母だったかもしれない。ともかく、これは何かお供え物を買わざるを得ない。そうした、いかんともしがたい理由によって、私はその和菓子屋に寄ることにした。職場には遅刻する旨の電話をかけた。

 数枚の紙幣と引き換えに、祖父に備えるお菓子を買った。
「もし良ければ、お茶をいかがですか?」
 店員にそう言われたので、断るわけにはいかなかった。ここで断るのは無粋というものだ。人として。

 よく冷えた緑茶をゆっくり味わう。深い味の浸み出した、それは高級な緑茶だった。お茶請けに出してもらった水羊羹も、あっさりとした味わいながら、上品な味。

 空になった茶碗を置いて、店を出ようとしたときに気付いた。職場の人達に何かを買っていくべきだ、ということに。私のささやかなサボリを見て見ぬふりをしてくれた、素敵な同僚たちに。

 和菓子の詰め合わせを持って出勤した私を、経理課の人達は温かい笑顔で受け入れてくれた。私の職場はそういうところ。それが正しいかどうかは、別として。
2015.05.26

Meaning of

 オフィスの真ん中で、堂々と転職サイトを眺めている水瀬さんを見つけて声をかけた。
「元気?」
「あんまり元気じゃないかもしれない」
 デスクに、ぐだっと身を預けながら水瀬さんは答えた。パソコンの画面では、転職アドバイスのメッセージが流れていた。転職するには、これからの季節が最も適しているそう。そのメッセージを、水瀬さんの上司がちらっと横目で覗き見たのがわかった。

「転職するの?」
 ストレートに尋ねた私に、水瀬さんもまた簡潔に答える。
「良いとこが、あれば」
「良いとこ、あった?」
 私の言葉に、水瀬さんは首を横に振った。「ないね、全然」という。一体どういうところを探しているのか尋ねたところ、
「残業ゼロで、基本給30万。勤務は週に2,3日。バカンスの休暇なんてあるといいわね」
 彼女は、めっぽうひどい条件をつけた。
「あるわけないでしょ、そんなの」
 呆れていった私に、水瀬さんはかなしそうな笑みを浮かべた。残念ながら、今の職場環境はそれなりに整っている。それ以上のところを探すのは難しい話だった。それは人事課員なら分かり切っている話でもあった。

「そういえば、こないだうちの係長とやりあったんだって?」
 笑いを消した、少しだけ真剣な顔で彼女は言った。
「……まぁ」
 人事の係長と喧嘩めいたことをしたのは、先週の金曜日のことだ。
「うちの課員、みんなスカっとしたって言ってたわよ」
 そうなの、と言うほかなかった。あまりそういう所で目立ちたくはない。
「いいじゃない。ゆずき、ただでさえ目立ってるんだから」

 そこで私は上司に呼ばれた。
 彼女が最後に言った言葉の続きを、知りたいような知りたくないような、そういう気持ちでいる。

2015.05.25

Gin and Lime

「あっ、久々ですね」

 久々に訪れたバー。マスターの青山氏は人懐っこい笑みで迎えてくれた。
 後ろ手で入り口の扉を閉めながら答える。
「ごめんなさい、ちょっと最近忙しくて。お店は相変わらず?」
 私は電卓を取り出しながら、いつものカウンター席に腰を下ろす。

「おかげさまで、順調な予感がしていますよ」
「予感じゃダメじゃない」
 思わず笑ってしまう。
「ですから神代さんに、こちらを」
 そう言って微笑む青山氏の両手には、溢れんばかりの領収書の山。唐沢寿明に似た、彼の整った顔立ちが少しだけ憎らしく見えて、私はこれ見よがしに溜息を吐いてみせた。

 暫く来ていなかったせいで、溜まっていた領収書や引落し明細書の処理にかかる。

 青山氏が作ってくれたジン・ライムに手を伸ばせたのはそれから30分後だった。30分で分かったことは、彼の予感通り、店の経営が順調ということだった。

「ねぇ、そういえば」
 私は電卓をしまいながら切り出した。
先日、インターネットで彼の名前を見つけたこと。それは、とある有名なカクテル・コンクールの入賞者として、掲載されていたこと。
「別人、よね?」
 私の知る限り、彼がオリジナルのカクテルをメニューに載せたことはない。なので、同姓同名の別人だと思っていたのだけれど――、

「それ、私ですね」
 あっさりと青山氏は認めた。
「そうなの?」
「えぇ。もう、10年近く前になりますか」
「本当に、あなたなの? オリジナルのカクテルなんて作らないと思ってたんだけど……」
「そう――ですね、いまはもう作りませんが、昔は作っていましたよ。……って、そんなに意外ですか?」
 言って、青山氏は破顔した。私がよっぽど不思議そうな顔をしていたらしい。
「意外ね、甚だしく」
 私は率直に言った。

「少しだけ、昔話をしてもいいですか?」
 青山氏は、声のトーンを落として言った。黙って頷いた私に、彼はもう一杯、手早くジン・ライムを作ってくれた。

 彼の話は5分と続かなかった。とても短い話だった。
 それは話自体が短いのではなくて、彼が話を極限までシンプルにそぎ落とした結果だった。そうでもしなければ、とても話せるような内容ではなかった。少なくとも素面では。

「悪いこと聞いたわね。ごめんなさい」
 謝った私に、彼は「昔の話です」と告げると、
「一度お話しておきたかったんです。聞いてくださってありがとうございました」
 いつものように穏やかな微笑みを浮かべながら、慇懃に頭を下げた。

 彼が二杯目に作ってくれたジン・ライムは、いつもよりライム・ジュースが多く、甘味が強かった。わざと、そう作ったのだろうか。

2015.05.24

Folkloristics

 いつものようにジントニックを作りながら過ごす夜。
 もういくつ重ねたか分からないグラスの中には、ほとんどストレートのジン。シュウェップスで割るのも、――同じことだけれど、ウィルキンソン・トニックで割るのも――面倒になって、グラスの中にはストレートのビーフィーターだけが注がれることになる。

 郷土史資料をデスクに開いた。
 十年以上、私の中でこの町には一つの謎があった。それをここに、詳しく記すことはできない。それはしかし、とてもデリケートな問題だった。それは人の、あるいは集落のルーツを明らかにする営みだ。――そのルーツが望ましいものである保証は、どこにもない。


 時の中で失われた少なくない歴史は、民俗学によって再現することが出来る。そんなことを言っていた教授がいた。

 この不自然な地形図。山の中にある謂れのない、小さな小さな神宮。そしてそこを中心に流布されている、昔からの噂。推測される想像を裏付ける学術資料。
 今日の日記は備忘録代わり。山の名前。振り下ろされる鉈。供養するということ。盗人。定住の意味。血の色。

 それらの文字をルーズリーフに記して、私はグラスにビーフィーターを注いだ。明日の朝になって、それが指し示す意味を推し量る自信は、ない。

2015.05.23

Usage of old.

 冷蔵庫に眠った赤ワインを見つけた。いつ購入したものか、それさえ分からなかった。

 コルクをあけて匂いを嗅いでみる。澱んだような香りがボトルの口から漂っていた。手の甲に一滴、垂らして味をみる。酸化したような古ぼけた味がした。もはや捨てられるべきワインだった。

 それを、しかし私は出来ない。ワインに限らず、古くなった酒を捨てることが出来ない。どうにかして使いたいと思ってしまう。ジン・トニックを飲みながら少しばかり考え込む午後3時。この赤ワインをどうやって使おう?
 部屋の窓ガラスの向こうには、音のない雨に濡れた町の風景が見えた。雨の降る日にはグラスが進んでしまう。

 ステーキにでも使う? その考えをすぐさま却下した。肉は食べたくなかった。それじゃあジャガイモの赤ワイン煮でも作ろうか、と考えてみる。レシピを頭の中で思い描く。時間がかかり過ぎることに思い至り、これも却下。

 再び、どうしようと考える。ドライマンゴーをひとくち、かじった。ジンとドライフルーツの相性は悪くなかった。私が高校生のときに発見したこの組み合わせは、未だに私の中で生きていた。
 辛いジンと甘いフルーツ。そこでふと、連想が巡る。

 デザート。
 そういう考えが自分の中で抜けていたことに今更気付く。クレープ・シュゼットなんて良いかもしれない。冷蔵庫を確認したところ、材料も問題ない様子。

 唯一の問題は、そのクレープ・シュゼットは本来ワインを使うレシピではないということ。しかしそれも、あまり大きな問題ではなかった。フランベという名前の炎さえあがれば、そこに使われている酒は大して重要ではない。それがワインであろうとブランデーであろうと。そのことを私は銀座のフランス料理店で知った。

 小さなフライパンにグラニュー糖を振って火にかける。徐々に溶けてゆくグラニュー糖の間に、バターをひとかけら落とした。砂糖の甘さと、ミルクの甘さとが混じった。複雑な甘い香りが漂う。この瞬間が私は好きだった。
 オレンジジュースとコアントロー、レモンスライスをフライパンに注ぐ。甘い香りに、柑橘のそれが加わった。相反するものがひとつに溶け合うとき、それはちょっと表現のしようがない甘美を私に与える。それはちょうど、辛いビーフィーターと甘いドライマンゴーとが見せる、不思議な調和のよう。

 フライパンにクレープを落として煮る。
 酸化したワインをレードルに注いで火にかけた。アルコールに移った炎が、透けるような青色の炎をあげた。あたりに咲く葡萄の香り。古くなったワインにもこれだけ豊かな香りが眠っていたことに驚く。
 アルコールを飛ばす炎をまとったワインを、フライパンに注ぎ落す。小さな炎の滝が、レードルとフライパンの間に架かった。

 そうやって完成したクレープ・シュゼット。
 たっぷりとオレンジ・ソースのかかったクレープを口に運びながら、窓の外の風景を眺めた。音のないこの雨は、まだしばらくやみそうにない。目に映るもののすべてが美しく見えて、私はグラスにコニャックを注いだ。

2015.05.22

Take for

 人事課の係長が朝からやってきた。

 その姿を見た瞬間、好ましくない話だと分かる。いつでも尊大に構えた係長。私のあまり好きでないタイプの人だった。

 彼はこう言った。
「いままで給料の計算方法間違えてた人がいてさ。今月で差額支給するからよろしく」

「と、いいますと――?」
 言いたいことを抑えながら、私は穏便に説明を求める。ちっ、と彼が舌打ちするのが聞こえた。
「わかんないかな? 要は、いままで給料を少なく支給してた人がいたから」
 デスクを指で叩きながら、彼は続ける。
「だから今月の給料で、追加して振り込むの。分かる?」

 分かる? という部分に力点を置きながら、彼は私のデスクの書類を指先で叩いた。そこにあったのは職員の給与台帳。

「それは、問題ないんですか?」
 不正を行って、露呈しなかったがゆえに今もその立場に居座る係長。彼の不正の陰で、辞めさせられた派遣社員の顔が浮かんだ。問うた私に、彼は答える。

「ん? 逆に聞くけど、何か問題でもある?あるんなら聞くけど?」
 言って、彼は唇の端を歪めて笑った。苛々する、それは芝居めいた仕草だった。

「ごめんなさい。失礼承知で言いますね。あなた、何を言ってるんですか?」

 言いながら、私の中で何か、抑えていたものが、抑える必要のないものに変わった。

「問題なんて山積みですよ? 累進課税って言葉知ってますか? 今年度の給与が増えてその人の税率上がったら、あなた、どう責任取るんです?」

 目の端で、課長がこちらに目を向けたのが分かった。それでも抑えられず、続けてしまう。

「それだけじゃない。復興特別所得税が加算されたの、知らないわけじゃないでしょう? 過去の給料に対してあなた、その税率かける気ですか? 高い税率を?」

 私は復興特別所得税の概要をまとめたファイルを、彼に突きつけた。オフィス全体に、張り詰めた空気が走った。私は周りの課に頭を下げておいてから、告げた。

「少なかったから足すとか、そういう足し算引き算するためにあなたはそこにいるんです? それが係長のお仕事ですか? 馬鹿馬鹿しい」

 目を泳がせた人事係長に、あとは私の課長が言ってくれた。
「まぁまぁ、ほら。人事課さんのミスだから、本人さんが税金で損しないようにね、考えたげて?」

 課長に言われて、憮然とした表情で係長は台帳を取り上げた。そして、小さく言った。
「調子に乗るなよ」と。

「どちらがでしょう?」
 返した私を、課長が止めた。

 ことがおさまってから、私は課長に頭を下げた。
「管理部って偉いわけじゃなくて、そこで働くみんなのためにいるんだね。だからあなたの言ったこと、間違ってないよ」
 そう言ってもらえたことだけが、小さな救いだった。



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